普通の人
みなさんは”普通の人”と聞いて、どんな人を思い浮かべますか。逆に、”普通じゃない人”とはどんな人でしょう。
僕は中学生の時から、”普通”とは何かを考えるようになりました。今回は、仲のいい僕の叔母と話していて「なるほどな」と思ったことを記事にしたいと思います。
普通
最近は、「普通は存在しない」と”普通”自体を否定する人が増えてきているように感じます。確かに、全く同じ特徴の人は存在しないと思います。
”普通”をインターネットの辞書で引いてみると、「ごくありふれたものであること」「特に変わっていないこと」「それが当たり前であること」と載っていました。
僕の解釈では、「多数がそうであり、それに当てはまっているために特に変わっていないもの」となりました。つまり、”普通”とは、「多数派」とも言えます。
ここまで僕の考えをお伝えしてきて、お気づきの方も多いかと思いますが、僕は”普通”は存在すると思っています。
ですが、もちろん多数派の中にもそれぞれの特徴や個性があります。
少し抽象的な例えですが、現在では「学校に行っている人」が多数派(普通)と言えますが、その人たちだけを見ても、それぞれが様々な個性を持っていますよね。
ここで注意ですが、自分だけの常識を多数派(普通)だと思い込んでいるという事態はよくあります。
「普通は〜」などという言葉を使った際には、改めて「これは本当に普通なのか?」「自分の勝手な思い込みじゃないか?」と自分に問いかけてみるのがいいと思います。実際、僕も「普通は〜」と使った時にはハッとすることがあります。
問題点
この記事のように”普通”を肯定的に捉えること自体に問題はないと思います。ですが、現代の人の思い込みに問題があります。
この、1つにして最大の問題点とは、「普通じゃない人がおかしい、悪い」「普通が正しい」と思うこと。つまり、このように”普通の人”、”普通じゃない人”を「良い・悪い」「正しい・間違い」などと価値判断することです。
価値判断をしなければ、”普通の人”は多数派、”普通じゃない人”は少数派。それで話は終わりです。だからどうということはありません。
もし、この価値判断から差別やいじめが生まれるなら、絶対にこの価値判断はやめるべきです。
まとめ
普通でも普通じゃなくても、それをそれぞれがありのまま受け入れる必要があります。
大前提は、いろんな特徴の人がいて、十人十色だということです。
普通の人も普通じゃない人もそれぞれ良いところが詰まっています。僕は、それぞれがその良いところを認め合える社会にしていきたいと思います。